おゆブログ

社会人になってから、ADHD・自閉症スペクトラムを診断されたアラサー共働き主婦が、日々感じたことを記しています

体育の授業が死ぬほど大嫌いだったので、どうにかしてほしくてスポーツ庁の広報を見たら絶望した

 目次

私が体育の授業を嫌いな理由

私が愛するガールズちゃんねるで、定期的に立つスレで

 

「分かる!!」

 

と同感しすぎて頭を打ち付けてしまうトピックがあります。それがこれ↓

 

girlschannel.net

 

私は、体育の授業が中学生から高校生の6年間、死ぬほど嫌いでした。

 

そんな人ってマイナーなのかなと思っていたら、めちゃめちゃいるんですね。少し前にアメトーークで運動音痴芸人の特集見たけど、全然笑えなくて胸が痛みました。運動ができなくて笑われるなんて、なぜ封じ込めていたトラウマをわざわざ思い出さないといけないのか。それにしても、なんで私って体育の授業嫌いなんだ???と思ったので書いてみました。

①先生が、指導らしい指導をまるでしない

それ先生としてどうなの???と思っていましたが、体育の先生って、ぜんぜん指導とかしてくれないですよね。やっぱり、体育の教師になる人なんて、運動音痴の人の気持ちなんて全然わかんないのかな???

 

私以外にも運動ができていない人はいましたが、「こういうふうに体をうごかせば、こういうふうにできるよ」なんて教えてくれた先生には出会えませんでした。先生の存在意義とは。

 

②できないことで晒上げ、あげくにクラスメイトの体育会系の女子から殺害予告までされる

たとえば、数学のテストの答案を一人一人プロジェクターで写したら、いじめにつながりますよね。なのに、なんで体育の授業はそれが許されるんですかね???なぜバレーのパスを繋げなかっただけで「死ねよ」と言われなければならないんでしょうか。死にたくないし。私は勉強が苦手だった彼女に「クラスの平均点下げてんじゃねーよ、死ね」なんて言ったことは一度もない。人には得意不得意が必ずある。

 

味方のチームのレシーブが自分の頭に激突してクラスは爆笑。自分は下を向いたまま心の中で大号泣。心の中で、小さい頃運動をしてこなかった自分が悪いのかと自責したこともありました。多少嫌がってでも、ゴールデンエイジとかの時期に、親には体操教室にでも放り込んで欲しかった気持ちは少しあります。それにしてもまじでバレー部とバスケ部の人は、血の気多い人ばかりで怖かったです。授業でマジになるの頼むからやめてくれ~~頼む~~

 

どうすれば体育の授業を嫌いにならないようになるのか?

もう学校は卒業しちゃったけど、どうにかならないものかこの体育のスタイルはと、スポーツ庁のページ検索したんですよ。

 

そしたらね、やっぱりスポーツ庁って脳みそ筋肉な人ばっかりだなーと思ったのが

 

スポーツ庁 Web広報マガジン|「嫌い」を「好き」に変えるために~学習指導要領改訂〈小中学校・体育〉~

 

を読んでた時に

 

もう1つのポイントは、スポーツを「知る」ことに重きを置いた指導を増やすことです。運動には「する」の他に、「みる」「ささえる」といった楽しみ方がありますが、そこに「知る」喜びを加えています。

運動をすることで心身が健康となる理由を知ったり、スポーツを通じて心を動かされたり、人と人がつながったりする尊さを知ってもらうこと、また、幼い頃から継続的に身体を動かすことで、体力の向上など好影響が多々あることなど、さまざまな効果を理解してスポーツに対する意欲や自主性を持ってもらうことが狙いです。

 

知る喜びじゃないんだよな~~体育が嫌いな理由そこじゃないんだよな~~

 

そりゃあ運動しないよりするほうが、健康になるのも生活習慣病のリスクを下げられることも分かってる。運動をすることで人と人とのつながりを感じられるのは運動部の人達だけで、運動音痴は体育の授業の中では笑うことすら許されなくなることだってある。

 

運動能力の差が顕著になってくる中学生の頃から、同じ競技を同じようにさせるのがすでにもう無理があるんじゃないかな。数学とか英語みたいに能力別で、自分のペースでできるような運動(ヨガとか長距離走とか筋トレとか)を、大学の科目みたいに選択したり履修したりできたら運動は好きになれなくても嫌いにはならなかった気がする。

 

私の子どもが産まれて中学校に入学しても、今と同じ、体育の授業のスタイルって変わってないんですかね。自分の運動音痴はもちろん遺伝させたくないんですが、仮に運動がそこそこできるようになって運動音痴を馬鹿にする側に立っちゃったら、それはそれで嫌だなとも思います。理想は、運動はそこそこ、でも誰にでも優しく接することができる、NARUTOのカカシ先生のような子に育てるのが今の目標です。